年齢は関係ないよね

先日、札幌にあるトモエ幼稚園にいってきました。

札幌はまだ雪が積もっていて、どれくらいでしょうか、私がずぼっとはまったところは深さ30センチくらいはありました。

ある日の午後、幼稚園の裏にある雪山でモモンガに会えるかもしれない、ということでトモエ幼稚園のスタッフに連れて行ってもらいました。

一緒に行ったのは、5歳の男の子、3歳の男の子、0歳の赤ちゃんの3人を連れたお母さん、そして、私と、娘(3歳)、息子(1歳)、母の、合計8名。

少し雪がふぶき始めました。

 

スタッフが雪の上に道を作ってくれ、私たちは、その後ろについて登っていきます。

5歳の男の子は、道なんか関係なく登っていったり、雪の上をごろごろ転がったり、スタッフに投げてもらったり、水を得た魚のようにはしゃいでいました。

途中で、足が滑り沢に落ちて、足や体が濡れてしまうこともありました。

 

きっと、お母様から見たら、怪我をしてしまうんじゃないか、遭難しちゃうんじゃないか、こんなはしゃいでいたら帰り道疲れて歩けなくなるんじゃないか・・・そんな心配をしながら見ていたかもしれません。

 

40分くらいは外にいたでしょうか。

帰り道、娘は、疲れた~と言いながらも、なんとか園舎が見えるところまで戻ってきました。

そして、さすがにもう疲れ、おばあちゃんに抱っこしてもらいたいと、後ろにいるおばあちゃんを振り返ると、5歳の男の子がしゃがんでいました。

その男の子は力尽きて歩けなくなってしまっていたのでした。「疲れた~」。

足も身体も濡れて冷たいだろうし、あれだけはしゃいだのだから、きっととても疲れていたのだと思います。園舎が見えて、気が緩んだのかもしれません。

 

その時、その男の子のお母さんが、男の子に向かって、

「3歳の子(娘)ががんばってるんだから、5歳のおにーちゃん、がんばりなさい!」と言いました。

 

私も、娘も、その言葉を聞いて、固まってしまいました。

 

私は、そのお母さんの気持ちがとてもわかりました。

”ほら、こうなると思った。最初にあんなに遊ぶからでしょ・・・自分で責任とりなさい!”

それに、がんばってその男の子をだっこしようと思っても、既に0歳のあかちゃんを抱っこしていながらの5歳の抱っこはできません、そもそも0歳を抱っこしながらの雪山登山をしてきた後なので、きっと、とても疲れていたことでしょう。なんとか自分で歩いてもらえるようにしなくちゃ。

或いは、もしかしたら、3歳の娘の目の前で、5歳がだっこされるようなことがあったら、私も母として娘を抱っこしなくてはいけなくなる、ということを心配してくださっていたのかもしれません。

 

娘はといえば、おばあちゃんに抱っこをしてもらうために振り返ったその瞬間に、自分が引き合いに出されて、男の子が怒られてしまいました。

自分のせいでおこられちゃった?大きくなったら、疲れたっていっちゃだめなのかな?

そんなことを感じていたかもしれません。

 

男の子は、立ち上がることができません。

次の瞬間、スタッフがやってきて、

「年齢は関係ないよね」

と言って、その男の子をおんぶして、園舎に戻っていったのです。

 

その言葉によって、私には、場の空気がふっと緩んだように感じました。

 

5歳の男の子は、5歳でも、疲れた時には疲れたって言ってもいいんだ。と思えただろうし、

これからもきっと、”今”を思いっきり楽しめる彼のままでいられるのだと思います。

 

男の子のお母さんも、本当は、無理矢理歩かせたいわけじゃなかったのではないかと思うのです。

何かしら、「自分でやったことは自分で責任をとるべき」「後のことを考えて自分をセーブできるようにしつけるべき」「他の親子に迷惑をかけるべきではない」など、自分の中で積み上げてきた「~すべき」の中で、出てきた言葉。もしかすると、ご本人自身がすごく頑張ってきていることなのかもしれません。

しかし、そのスタッフの言葉で、その「べき」から解放されるような、そんな感じがしたのではないでしょうか(想像でしかないけど)。

娘も、すっきりした気持ちで、おばあちゃんにおんぶされて帰ったことでしょう。

 

スタッフの一言で、その場にいた皆が、

誰だって、3歳だって、5歳だって、大人だって、疲れたら、疲れたって、言っていいんだ。そう思えたのではないでしょうか。

 

この件によって、私も、娘も、その男の子も、そのお母さんも、きっと、別の人の同じような場面に出会ったら、

心から、「年齢は関係ないよね」と伝え、手を貸してあげられるのではないかと思います。

 

私も、いつか、このスタッフのように、ここぞというタイミングに、皆が自分自身をそのまま受け止められるような、そんな優しい一言が自然と伝えられる人になりたいと思いました。

 

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どうじゃなかった!

いただいたお菓子を食べた娘に、

「どう?」と聞くと、娘は、

「どう!」

 

公園でめいっぱい遊んだ日、おとーちゃんに、

「今日、どうだった?」と聞かれて、娘は、

「どうだった!」

 

札幌で、雪の上をチューブですごいスピードで滑った後、

「どうだった?」と聞くと、娘は、

「どうじゃなかった!(涙目)」

 

初めてこのやりとりをした時、私の頭の中は「???」でしたが、

娘にとって、「どうだった?」は、

「大丈夫?」→「大丈夫!」「大丈夫じゃない」

「楽しかった?」→「楽しかった!」「楽しくない」

「あってる?」→「あってる!」「あってない」

と同じ使い方をしているのだと分かり、

それから、上記のやり取りは、我が家では普通になってしまいました。

 

今日、夫が帰宅してからの会話はこんな感じでした。

 

夫「今日、どうだった?」

娘「どうだった、どうだった!」

夫「どうだった、ふたついただきましたー

何がそんなにどうだったの?」

娘「どうだったから!滑り台がどうだったの!はやかったー」

 

言い間違いが、子どもの世界の入口になることが多く、とても面白いです。

 

 


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こないで!

「こないで!」

1週間前、初めて自主保育のグループにおじゃまさせてもらったとき、メンバーの子供たちに何度も何度も言われた言葉です。

「○○はいいけど、ゆま(娘)はダメ!」と、私たちは容赦なく、追い出されます。

私は、どうしてだめなの~?じゃましないから~。一緒に遊びたいんだけど、だめー?とか伝えてみるものの、子どもたちは一切折れてくれません。

 

言われた娘は、一言「いやだ!」と言ったり、じーっと見ていたり・・・、とても真剣な表情で、しばらくの間子供たちの側に立っていました。

 

出会ってから3時間後くらいでしょうか、私が彼らの近くを通りかかったとき、グループ隊長のツキ君が私に、「ねね、水くんできて」といってヤカンを渡してきました。私は承諾し、側にいた娘に、「水くんできてって言われたんだけど、ゆまもいく?」と聞くと、娘はだまってそのヤカンを受け取り、水をくみにいき、そして、ツキ君に渡しに行っていました。

少し緊張感があったような感じがしましたが、娘はどんな気持ちだったのでしょう。

 

結局、その日は、全く仲間に入れてもらえませんでした。

 

その一週間後、また同じ自主保育のグループに参加させてもらいました。

ツキ君を含む子どもたちは、娘や私のことを覚えてくれているようでした。

開始の挨拶後、暫くして、子どもたちが、バーッと遠くにいってしまいました。

私は、あ~今日も一緒に遊んでくれないのかなぁ~と思っていたら、

娘が、私に、「おねーちゃんたち、どこにいったかな?」と聞いてきました。私が、探しに行く?ときくと、「うん!」といって、子どもたちが走っていった道を走っていきました。

私も一緒にいってみると、なんと、その先で、子どもたちが隠れて私たちをみてるじゃありませんか。

子どもたちは「きたぞー!」と言って、私たちから逃げるようなそぶりを見せます。もちろん、私たちは、なんだか嬉しくて楽しくて、子どもたちを追いかけていきました。

そうして、娘と私は、初めて、子どもたちの遊びに入れてもらう事ができました。

 

振り返ると、どんな場所でも、新しい人が来たときには特に、子どもたちは「はいらないで!」とよく言ってる気がします。そんな言葉を聞くと、”そんな意地悪いわなくていいのに~”と思っていましたが、そう言う時の子供の世界はどんな感じなんでしょう‥‥。

 

・大切に育んできた関係性や空気が崩されるかもしれない(例えば、大人でいうと、気心知れた仲間うちで飲んでいたら、隣の席の知らない人に、一緒にのもうや!と言われた感じ)

・自分の居場所がとられちゃうかも(例えば、家族に新しい赤ちゃんがきた!ときのような感じ)

・他のメンバーにかっこいいところ見せたい(そういえば、グループ内に、ツキ君が気にしている女の子がいたようだった)

・なんか面倒。ペーストが崩されるのが嫌。(遊びを説明するのとか、道具を持ってきてあげるのとかしなくちゃいけないし)

・・・・と、夫や友人と話しながら、色々なことを想像してみました。

 

中でも一番自分の中で最も身に染みて理解できたのは、

私が料理をしている時に、娘が、「ほうちょうやる!」と野菜を切るお手伝いをしにきて、私が、「これはおかーちゃんがやるわ!難しいから!(面倒だし、怖いし、今は余裕がない!邪魔しないで!)」と言っているときのこと。

これも、子どもたちの「はいらないで!」似たような感覚なのかもしれないなーと思いました。

 

そう思うと、「はいらないで!」のもとにある感情は、意地悪というより、人として、とても自然なものだなぁと思ったのでした。

相手がどんな人なのか、自分たちにどんな影響を与えそうな人なのか、よくわからないうちに、その人を受け入れるのは、大人でも、とても難しいこと。

逆に、充分な時間をかけて相手を知り、自分の中で受け入れる準備ができたら、その時初めて、相手を受け入れることができる。

娘も(私も)、子どもたちも、そんなことをやっていたのかもしれません。

 

特に、友達になろう、とかそういう言葉はないけれど、お互い自然な姿で受入れ合った感覚、とても心地よく、私は一人で感動してしまいました。

(子供たちにとったら、当たり前のことなのかもしれませんね)

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ごめんなさい、の重み

昨晩、部屋で娘(2歳11か月)と二人でごろごろと遊んでいた時のこと。

娘が、私のメガネを取った拍子に、私の目をメガネの先っぽが突いてしまいました。私は反射的に、「いたい!」といって起き上がり、”謝れ!”といわんばかりに娘を見たら、娘は私を意識はしているものの、目をそらしてごろごろ。

 

「痛かったんだから、謝ってよー」と言いそうになり、”これ、やりたくないやつだ・・・”と自分の中の自分が言っているのが聞こえ、なんとか自分を押しとどめ、娘の世界を覗いてみる・・・。

 

私「そうか、わざとじゃなかったのか」

娘「・・・わざとじゃなかったんだよ」

私「そうか、それなら、しょうがないね」

娘「・・・しょうがないんだよ」

 

私は、そうか、わざとじゃないし、考えてみるとそんな痛くもなかったなぁと思い返し、まぁ、いいかと、遊びに戻りました。

 

しかし、暫くたって、娘は、私に、「ごめんね」と言ったのでした。

 

私「おぉ、わざとじゃなかったのに、謝ってくれてありがとう。びっくりした。」

娘「いいよ。・・・ねこさんやりたかったの。」

そうして、前日にお友達とやった、ねこさんごっこをしたかったのだという事が分かりました。

 

私は、人との関係の中で、相手を傷つけてしまったときに、すぐに「ごめんなさい」が言えることは、理想だと思っていました。

大人の世界では、特に社会人の世界では、こちら側にどんな事情があるにせよ、相手が嫌だと感じたのであれば、自分の気持ちを一旦置いておいて、相手を傷つけてしまった事実に対してすぐに謝罪することは当然のことだからです。

実際、今まで、娘に対しても、それを求めることがありました。

 

でも、娘にとっての「ごめん」は、私が思っているよりも、重みのある言葉なのかもしれません。本当に、自分が悪かった、と思えたときに初めて出せる言葉。だからこそ、「ごめん」と伝えることに時間がかかるのは自然なことなのかもしれません。

時間がかかっても、本当の気持ちに繋がっている「ごめん」を使えるのだとしたら、それは本当に素敵なことだと感じました。

この、せっかくの重みのある「ごめん」が、知らないうちに、”言わされた「ごめん」”や、”とりあえず言っておけばいい「ごめん」”になっていってしまうことは、とてももったいないことだと感じました。

待てそうなときには、待ってみよう。

 

そう考えると、最近私は、そこまでの重みの「ごめん」を使ってないかもなぁー。

 

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どうしようもないこと

一昨日の朝の話です。7:30頃、既に起きて元気いっぱいの娘(2歳11か月)が、半分寝ている状態の私のところへやってきて、枕元でおもちゃのバスを使って遊び始めました。

暫くして、私の顔面にバスを走らせるようになり、私が、「おぉーちょっといたい~。まだ寝てたいよー」というと、娘は面白くなったのか、段々激しくなってきました。

私は、冗談じゃなく痛くなり、さらには夜中の授乳で充分寝れてないのに!とイライラもしてきて、「痛いから、やめて。おかーちゃん、まだ寝てたいから、ちょっと待ってて!」と伝えてみるものの、娘は全然やめません。こんにゃろう、と思って、ついに、「やめて!」と手で娘を突き放してしまいました。

 

私の心の中は、言葉で伝えてもわかってもらえそうにない諦め、でも、どうにかしてやめてほしい、あとは、私が痛いのをわかってほしい、そんな気持ちでした。

 

娘は、シュンとなった感じで、少し止まって、そして、また、私の枕元で遊び始めました。

 

私は、その娘の姿を見て、”ただただ、遊んで欲しかっただけなんだよなぁ‥‥”と思い、「突き放しちゃってごめん・・・」と言いながら、その瞬間、不思議とふっと思い出したのが、半年くらい前の、娘とお友達との、ある出来事でした。

 

その出来事というのは、娘が、お友達の髪の毛をぎゅーっと引っ張って、その子が大泣きする、という事件。

その時期、娘は、たたかれたらうまいこと相手から逃げたり、時々叩き返したりというのはありましたが、髪を思いっきり引っ張るというのを私は初めてみたので、どうしたんだろうと少し動揺したのを覚えています。いつもと明らかに様子が違ったのでした。

 

その事件を思い出した時、お友達の髪を引っ張った娘と、娘を突き放した私を重ね合わせ、初めて、その時の娘の気持ちが分かったような気がしました。

”あ~それ以外、しようがなかったんだよなぁ・・・”

 

というのも、娘がお友達の髪を引っ張る直前の出来事を思い返してみると、

我が家に来たそのお友達は、目新しい我が家の色々なものを試して遊びたく家中を探索していました。娘にとっては自分の家だけど、やったことのないことをお友達がしているので、目が離せません。例えば、ドアの郵便受けのところを開けたり閉めたり。冷蔵庫の野菜室を開けたり閉めたり。

娘は、お友達についていき、お友達が面白そうなことをやったらすぐに「ゆまちゃんの(家の)!」といって、そのお友達をどかして自分がやるようにと行動していました。

きっと、お友達は、「自分が先に見つけたのに!」と思っているのでしょう、娘の「ゆまちゃんの!」に対して、きっと睨んで、郵便受けをバン!と閉めます。

その拍子に、娘の指が郵便受けに挟まって、娘は大泣き。さらに、冷蔵庫でも同じように、指が挟まれてしまいました。

娘がお友達の髪の毛を掴んだのは、その時でした。

 

娘の心の中は、「痛い!あなたは私が痛いのを分かってんのか!」「そもそも、これ、わたしのなんだから、やめてよ!やめてっていってるのに、なんでやめてくれないの!」

そんな中で、どうする術もなく、目の前に垂れ下がっているお友達の髪の毛を引っ張ってしまったのかもしれません。

そして、相手のお友達も同じように、「自分が先に見つけたのに!」という気持ちを、バン!と強く閉めるという行動で表すしかなかったのでしょう。 

 

もちろん、髪を引っ張ることはよくないことだけれど、指があるのに強く扉を閉めることも、突き放すことも、よくないことだけれど、

どうしようもないこともあるなぁ・・・と、思ったのでした。

 

こうやっていくうちに、今回の私のように、相手の気持ちが想像できるようになっていったりしていくのか・・・と思うと、今回の突き放してしまった出来事も、髪を引っ張る事件も、とてもつらくてしんどいけど、意味のあることなのかもなぁ。

 

ちなみに、先ほど、一昨日の朝の時と同じように、娘が私の頭の上で車を走らせたので、「これ、痛いから、やってほしくない・・・」と言ったら、娘は、「わかった」とすぐにやめたのでした。私の気持ち、分かってくれていました。

 

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無言の時間

保育園の帰り、近くの公園で遊ぶのが日課の私たち。

18:00頃なので今は真っ暗で、昨日はお友達は誰もいませんでした。

「お友達いないね~寂しいね~」なんて言いながら、いつものようにすべり台の遊具へ。

昨日は、「みてみておかーちゃん!」と言って、今まで怖くて滑れなかった大きなすべり台が滑れるようになったのを、見せてくれました。

 

暫く遊んだあと、娘はすべり台の一番下に座って電車の線路の方を眺めています。

私が隣に座ると、私に寄りかかって、私の唇を触り始めました。それは、普段、寝る前など、落ち着きたいときにする行動です。

 

私は、せっかく公園にいるのだから、もっと遊んだらいいんじゃないか、と感じたり、誰もお友達いないし、退屈したのかしら、と思ったので、

「ね、寒くない?あそぼ~?それとも、帰る?」ときいてみたら、娘は、静かに首を振って、ゆったりし続けていました。

 

ちょっと寒くなってきたな・・・。ぼーとするなら、あったかい家に帰ってでもできるわ。と思って、立ち上がろうとしましたが、

そうだ、こういう時こそ、こどもの世界を覗いてみるんだった、と思いとどまり、私も少しそこにいることにしてみました。

そういえば、普段は止まることなく遊んでいることの方が多いのに、今日はいつもとちょっと違う。

 

暫くすると、視線の先に、電車が通りました。電車の中には、たくさんの人がいて、色んな背の高さや髪型の人がいました。ここって、こんなに電車がよく見えるんだ。

そういえば、すべり台の下にゆっくり座ることなんて、滅多にないな。普段、お散歩でくる昼間だと、さっさとどけないと次のお友達が来てしまって、それはそれは慌ただしいんだろうなぁ・・・

10分弱くらい、そんなことを想像して静かに過ごしていて、私が「ここ、なんか、特別な感じするね」と伝えたら、娘は「うん」と言って、立ち上がり、再びすべり台を始めました。

 

結局、娘が何を考えていたかはわかりませんでした。

でも、なんとなく、必要な時間だったのかも。とだけ、思えました。

 

ちょうど今朝読んでいた本の中で、子どもの言葉を使わないコミュニケーションの事例が載っていました。

その事例中では、突進したり、泣いたり、時には相手の持っているものをとりあげたり、まだ言葉を十分操れない子供たちはそうやって全身で自分を表現し、相手とコミュニケーションをとっていて、その中で、お互い分かりあったりする、そんな子供たちの姿が描かれていました。

 

その事例を読み、「言葉をつかってコミュニケーションできるようになることはいいことだ」と思っていた自分に気が付きました。そして、実際、娘の感情があふれだした時、相手に言葉でどう伝えたらいいかを教えることがありました。

でも、全身を使って表現する、泣いて表現することは、言葉にはかなわない、その子がまるっと表現されているものなどだと思ったら、それはそれはとても尊いものだと気が付きました。

私自身、言葉をつかえるようになった今、言葉に頼りすぎてしまうことは、なんだかもったいない、そんな気までしてきました。

 

昨日のすべり台での無言の時間。

それは、私に全身でよりかかって、唇を触る、そうやって、娘はまるっと自分を表現していたのかもしれません。

言葉なんか、いらなかったなぁ。そんなことを感じた一件でした。


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お風呂の壁

娘(2歳10か月)は、お風呂に入るまでの時間が、とても長いです。

どちらかというと、お風呂に入るというより、頭と顔を洗うのが嫌みたいです。

 

昨晩は、お湯につかってからが長い!一緒に入っていたおとーちゃんはゆでだこになってしまったので、私がお風呂の横で一緒に遊んでいました。

 

持ち込んだ縄跳びを分解して、手を持つ部分に部品を入れて、お湯を入れて、「スープ!」といって私に飲ませてくれたりと、それはそれで新しい遊びが生まれてとても楽しかったのですが、30分くらい入っていたでしょうか。残念ながらいつもの寝る時間が迫っていました。しかも明日朝ははやい。

 

「ねね、もう寝る時間になっちゃったから、からだ洗って、でよー。昨日、洗わなかったから、今日は、洗う日って約束したよねー」

「なんで?(最近の口癖)」

「寝る時間遅くなっちゃうと、明日の朝つらくなっちゃうから」

「なんで?これおわったら!」

洗面器の中に部品を入れはじめてまぜまぜ。

「そうか。わかった、終わったらおしえてね」

 

「おしまい。これかたづけする」

「・・・わかった」

 

「これ(お水)かけたら!」

「・・・うーん」

 

もはや、時間稼ぎとしか思えない行動と感じ、「今晩もか」と落胆の気持ちが入り混じって、(実はあまり待ってもないのに)せっかく時間をかけて待ったのにと、悲しかったり情けなかったりして、イラっとしてしまい、

「もう、時間切れ!あらうよ!」といって、有無を言わさず頭や顔を洗い始めると、娘は大泣き。私もいつもよりも雑に洗ってしまいました。

 

洗った後、すぐにお風呂をでて、服を着ると、「やり遂げた」というような感じでしょうか、ケロッとしていて(るように私には見えて)、すぐに一緒にベッドに入って即入眠。

 

娘にとって、お風呂で頭や顔を洗うことは、できるなら避けたい大仕事のようです。

うーん、イライラして無理やりやってしまった。

ここは娘の世界を覗くチャンスということで、今晩からぼちぼち探ってみようと思います。

 

つづく。

 

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