窓際のトットちゃん

窓際のトットちゃん。

この本を読んでいる途中、何度も何度も、涙が溢れそうになります。

それは、私の中にある  こどもの世界  に、やさしく光があたり、あったかく包まれているような、そんな感じです。

 

私のなかのこどもの世界。思い出したのは、私の最初の記憶である、だいたい4歳くらいの時のこと。

小児科で検尿をしているとき、思わずうんちが出てしまい、コップを持ってくれていた母の手に、うんちがべちょ!っと着いてしまいました。

私は、わ、まずい!そんなつもりじゃなかったのに、お母さんの手にきたないうんちがついちゃった‥‥とショックを受け、母をみてみると、母は、

「◯◯(私の名前)のうんちだから、きたなくないよ。」

と言いながら、普通に手を拭いていました。

 

その時、私は、おもわぬ返答に驚いて、そして、胸が締め付けられるほど嬉しくて嬉しくてたまらなくなったのを、はっきりと覚えています。 また、お母さんが本当におおきくて、かっこいい!と思いました。

そして、この魔法の言葉を、私もいつか誰かに言おう、と心に決めたのでした。

 

そして、8年越し、中学一年生のこと。

友達と話していたとき、その友達のよだれが、私の手にたらーと垂れました。

そのとき、私は、あの、心に決めていたセリフを言うことができたのです。

「◯◯(友達の名前)のだから、きたなくないよ。」

 

その言葉を言ったあとの何とも言えない満足感。あのときのお母さんみたいに、自分も少し、おおきくてかっこよい人になれた感じがしたのでしょう。

その友達は覚えているかはわからないけれど、私にとって、今になっても忘れられない大切な日になったのでした。


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どんな時も、自分のことを好きなおとーちゃん。

娘(2歳10か月)は、はやくもお年頃の少女のようで、おとーちゃんがチューをしてきたり、抱き着いてきたりすると、「ちかづかないで!」と拒否、「大好きしていい?」と聞くと、「だめ!」ということがほとんど。

少し遠くにいるおとーちゃんがちょうどいいようです。

それでも、夫は、「ゆまはいやでも、おとーちゃんは大好きだよ~!」といって、めげることなく、娘に近づき続けていますが。

 

一昨日、夫が保育園のお迎えにいったときのこと。園から出ると、娘は、たまたま園の外にいたお友達と一緒に輪になって遊び始めました。暫くしてお友達が娘の手を放し、他のお友達を迎え入れようとしていた時、娘は、あいた手で鼻くそをほじり始めました。そして、お友達が戻ってくると、娘は、大変自然に、手に着いたその鼻くそを、夫に渡して、再び輪になって遊び始めたのだそうです。

 

また、昨晩のこと。息子が泣き始めたので、私が背中をトントンとしていると、娘が起きて、私と息子の間にはいってきました。暫くして、息子がさらに泣き出してしまうと、娘は、そこから離れ、「おとーちゃんもすきなの」と言って隣に寝ている夫を叩き起こし、ニタっと笑って、夫の腕の中で寝入ったのでした。

 

娘にとって、おとーちゃんは、「どんな時も、何があっても、自分のことを好きに違いないひと」なのでしょう。



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おかーちゃんは、椅子に座って見る日。

私たちがお世話になっている保育園は、年に3回、保育参観月というのがあって、その月は、午前午後それぞれ1時間の決まった時間においていつでも参観してもよい、という特別な月があります。

 

私は、せっかくの育休中!ということで、12月は9回、参加してきました。

保育園での娘の様子を見たいというのが一番ですが、遊びの環境や内容、先生たちの関わりを学びたかったのと、他のお友達のことももっと知りたいと思い、参加しました。

そこでの出来事の記録です。

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12月最初の参観の日。

私が部屋の中に入ると、娘(2歳9か月)は「おかーちゃーん!」と言いながら、嬉しそうに私のところに寄ってきて、私の膝にぴたっとくっつきました。

先生は、その姿を暫く見守ったあと、英語が始まったので、「ゆまちゃん、こっちおいで!」と娘を誘い、そして娘は私に、「おかーちゃんも一緒に!」と言って、私の手を引いて、みんなの輪の中に入ろうとしました。

 

その時の私の心の中は、とてもぐるぐるとしていて、

自分自身の小学校の時を思い出し、「参観」なので、親は、子ども達から離れたところに座り、

子どもたちが活動しているのを静かに見るべきであり、子どもは、親を意識しながらも、活動に集中すべきである。(ちょっとした発表会のような。)という考えが頭を過り、

 

とはいえ、それは小学生の話。

2歳の子供が親を見て嬉しくなり、親のところに寄ってくるのは自然なこと。

その行動を制限して、無理やり引き離すのは大人の都合のようで不自然で、子どもにとってはわけのわからない理不尽なことなんじゃないか・・・

できれば私はやりたくないなぁ・・・。

そのうち準備ができたら自然に離れていくようになるだろうから、その時を待ちたい。

 

とはいえ、いつも頑張ってくれている先生たちの、普段の子供たちの姿を親にみてもらいたいという願い(でもあり、おそらく保育参観の目的)には協力したい、

またクラスの流れを乱して先生や園児たちに迷惑をかけるようなこともしたくないなぁ・・・

 

あわよくば、娘やお友達と遊んで仲良くなれたら、それは本当に何より嬉しいこと!

 

という気持ちを全部ひっくるめた結果、この選択は正しいのかと少しドキドキしながら、私は、椅子から離れて、一緒に参加する、という選択をしたのでありました。

 

ちなみに、その日やその後の参観でも、当然ながら、お母さんの方に寄っていく子どもたちがいましたが、お父さんお母さんの対応は様々で、

「先生よんでるよ。いっておいで。」と促したり、

「かっこいいところ見に来たんだから、かっこいいところ見せて」と言い聞かせて子どもを輪に戻したり、

「しつけがなってないな。集中力がない。少し皆と一緒に輪の中に入ろうか。」と言って、子供たちの輪の中に入って、少しして戻り、やっぱり入り、の繰り返しだったり、といったものがありました。

 

さて、私が皆の輪の中にはいる選択をした後、

英語の先生は、私を歓迎し、仲間にいれてくれ、園児にシールを配る係りを託してくれたりと園児たちとの関わりをたくさん持たせてくれました。

娘もお友達も、本当に楽しそうな笑顔をみせてくれ、私はとても幸せな気持ちになっていました。

私は、この選択は、皆にとって、平和だった!いい時間になった!とほっとしていたところ、

 

最後の方で、担任の先生に、

「今回は初日なのでよいのですが、一応、参観なので、次回から椅子に座ってもらえますか・・・」

と言われてしまいました。

 

私は、なんだかとても悲しい気持ちになってしまい、思わず、

「そうですか・・・この先の参観は私は参加しない方がいいかもしれません」と伝え、

担任の先生を困らせてしまいました。

 

帰り際、担任の先生とゆっくり話すことができました。

先生に、思い切って私の素直な気持ちと、「先生や他の園児に迷惑になるようであれば、今後、参加しない方がいいと思っています」とお伝えすると、

担任の先生は、以下のように答えてくれました。

「初回だから、いいんです。

前回も、回数を経るごとにゆまちゃんもお母様を気にしないようになってきましたし。

私も、お母様と同じ考えで、のびのびいてほしいと思っていて、無理やり戻そうとは思っていません。どうしても泣くようなときには、お母さんのそばにいたり、お母さんにきてもらったりしてもいいと思うんです。

忙しい中調整してくださったのですし、私たちも、親御さんに子どもたちを見てほしいと思っているので、是非、いらしてください。

私から、子どもたちに、今日参観だと事前に伝えていなかったのも悪かったと思っています。

形だけでいいので、最初は椅子に座ってもらえますか。」

 

それを聞いて私は、

先生が時間をとって話を聴いてくださったことそれ自体や、それでも参観に来てほしいと言ってくださったことで気持ちが落ち着いてきて、

そうか、椅子に座ってみるのは、大前提のルールである!ということが、私の認識とずれていることに気が付きました。

 また、私も娘に、今日の参観のことについて、「今日、サンカンいくよ~」くらいにしか伝えていなかった・・・と気が付いたのでした。

 

 そして、帰宅後。その日の夕方は、娘は少し様子が変で、「いやだ!」が多かったり、珍しく机を蹴ったり、夜もなかなか眠らず遊びたがったりと、荒れ模様でした。

 

翌日、次の参観の日の朝、

「ゆま、おかーちゃん、今日、サンカンなんだ。サンカンは、ゆまたちが英語してたり遊んだりしてたりするのを椅子に座ってみせてもらう時間なの。

本当は、一緒に遊びたいんだけど、それはできないみたいだから、我慢するね。おかーちゃん、見ててもいい??」

と伝えると、娘は、

真剣な顔で「うん。」と頷いてくれました。

 

そして、保育園へ到着。

その日の参観は、最初、私の方を向いて、「見てる~?」というように目配せをしてくれ、あとは、私のところに来ることなく、英語を最高の笑顔で楽しんでいました。

 

英語の後、散歩に行くとき、普段はお友達と手をつないでいくのですが、この日娘は、

「おかーちゃんと手をつなぐ」といって私のところにきました。

私は、保育参観の大前提を踏まえ、

「今日はね、おかーちゃんは後ろからみてなくちゃいけないみたい。後からついていくね」というと、

娘は「うん」といって、すぐ、他のお友達と手をつなぎにいっていました。

 

そして、散歩の目的地・公園では、皆がばらけたあと、

娘は大好きなブランコに直行し、「おかーちゃんがおす!」と言って、私の手を引いてくれました。

他のお友達みんなが色鬼遊び(サッカーをしている日もありました)を始めたときも、

娘は、先生に来るように誘われても、片時もブランコを離れず、最初から最後まで、私と一緒にブランコをし続けました。

 

私は、皆がばらけているこの時なら、娘と関わっても大丈夫そうだと感じ、ずっと娘と一緒にブランコをしていました。

 

そして、散歩の帰り道、娘は私の方を一切向かず、黙々と歩いて園に戻りました。

その後の残りの7回の参観も同じような感じで進んでいきました。

 

 

私は、2回目の参観の前に、参観であることや、その時のルールを伝えたあと、娘の行動がこんなにも変わるのだ、ということにとても驚きました。

また、初日、その日きりで終わった、娘の荒れた様子は何だったのだろう・・・?

娘の中では何が起きていたのか?

 

思い返してみると、参観にもいくつか形式があって、

例えば敬老の日のイベントでは、祖父母が部屋にやってきて、普段と同じような活動の中に、祖父母が入り一緒にふれあい遊びをします。

また、9月の参観の中には「参加型保育参観」というのがあり、親が活動に参加している日もありました。

 

そう考えると、娘からしたら、おかーちゃんが参観に来た!→おかーちゃんと一緒に遊ぶ日!と思うのはとても自然なこと。

ただただ、今日は遊ぶ日ではなくて、母は椅子に座って普段の自分たちを見る日である、ということが分からなかった(曖昧だった)だけ。

 

今更ですが、先生が、「事前に言っていなかったのが悪かったと思います」とおっしゃっていたのは、このことだったのか、と気が付きました。

 

だから、私が娘に、参観では座ってあなたのことをみてるね、と伝えたときには、

娘は、「あぁ、今日はそういう日なんだ。おかーちゃんのところに行きたいけど、それはできない日なのか。」と理解し、その上で行動していたのだろうと思います。

 

また、散歩での行動を振り返ると、おかーちゃんと手をつなぎたいけれど、それはやってもいいのかどうなのか、本当にわからないから、ただただ、確かめた。

そして、今日はどうやら無理らしいとわかって、他のお友達のところにいった。

帰り道も、行きがだめなら帰りもだめだろうと考え、普段通り保育園へ向かった。

そういうことだったのかもしれません。

 

先生に言われるまで、この園での参観は、椅子に座って見ていなくてはならないというのが大前提のルールであることを知らなかった(曖昧だった)私。

最初は、自分なりにみんなによいと考えた選択を否定されたような気持ちがして、悲しくなり、思わず感情的になってしまいました。

しかし、先生と話して私の気持ちを受け止めてもらい、そして、知らなかったことだったのだと気が付いたら、その上での行動を選択できるようになりました。

 

娘と私は、同じようなことを感じ、同じことをしていたのかもしれません。

そう考えると、もしかしたら、娘の、初回参観の夜の荒れた様子は、私と担任の先生が話している様子を見て、”自分なりにやったことにバツをつけられた”、という風に理解、少なくとも感じ取っていたのかもしれません。

しかし、私が伝えた後は、娘の気持ちは落ち着き、新しい情報(ルール)を踏まえた行動を選択できるようになった。

 

ちなみに、公園で、皆とまじらず、ブランコでずっと私と一緒に遊んでいたのは、ここは、例のルールが適応されない、ずっとおかーちゃんといられる場所だと感じ取ったから、それを選択していたのかもしれません。

 

余談ですが、お友達のうちのひとり、お母様のところにひっついて、先生やご両親に、何度も「今日は見てる日だから皆のところにいっておいで」と言われても、ずっとお母様のそばから離れようとしない子がいました。

その子は、最近、親御さんがとてもお忙しく、朝早くから夜遅くまで保育園にいることが多かった子であり、当日は、仕事をなんとかして、夫婦揃って、サプライズで参観に参加されていたということでした。

その子は、きっと、先生や親に言われたことはちゃんと理解していたのだろうと思います。でも、きっと、それ以上に、お父さんお母さんが会いに来てくれたことが嬉しくて嬉しくて、一緒にいることの方が、格段に重要だったのではないかな、と想像し、とても愛おしく感じました。

 

最後に、何故、できるかぎり、子供は親に会いに行きたいと思う気持ちを我慢して活動をつづけ、親は椅子に座ってそれを見る、ということが”大前提のルール”になっているのか・・?そこの腹落ちが全然ないままだったので、娘にもちゃんと伝えることができていないままです。もやもや。

  

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おおきくなったら。

ある日、娘(2歳9か月)が息子(0歳8か月)に、

自分が食べていた「固焼きせんべい」を食べさせようとしていたことがありました。

 

私「ゆま、ありがとー。でも、しゅんちゃんは、まだ食べれないんだ~。

  もう少し大きくなったら、食べられるようになるよ。」

娘「大きくなったら?」

私「うん」

 

 

そして、数日後、娘が同じようにせんべいをもっていたときのこと。

娘は私に、真剣な顔で、

「しゅんちゃんはね、まだ、おくち、大きくないから、食べられないんだよ」

と教えてくれました。

 

私は、吹きだしそうになりながら、

「そ、そうだね、まだ難しいんだよね」となんとか答えました。

 

その時は、おくち、という意外な付け足しに面白くなってしまったのですが、

後から考えてみると、確かに、「食べられない理由」×「大きさではかるもの」だと、

そうなるかもなぁ、と妙に感心させられたのでした。

 

 

大きい小さい、は、娘にとって、抽象的すぎて分かりにくいのかもしれない。

そんな、よくわからないものを、自分の中で分かるものに変換して、納得して、取り込む。

そんなことをやっていたのかなぁと想像していると、

あぁ、娘は、私たち大人と同じことをやっている、と気が付いたのでした。

 

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本人同士にしか分からないこと。

一昨日、友人親子と公園に遊びにいった時のこと。

ある男の子二人が、私と、友達になってくれました。

 

彼らは公園にある土管の中で、大声を出してその響きを楽しんだり、

掃除掃除!と言いながら砂を払ったりして楽しんでいました。

 

私は、彼らのいきいきした様子がとても可愛くて、楽しそうで、私までわくわくしてきて、

気持ちの赴くままに、声をかけてみました。

 

私「なんか、基地みたいで楽しそうだね!ここ、私も入ってもいい??」

男の子「(にやっとして)だめだよ!子供だけのところなの!大人はだめ!」

私「そうなんだ!いいなーうーん、みてるだけならいい?」

男の子「それならいいよ!遠くでなら!」

私「ありがと!あと、うちの子、ゆまっていうんだけど、はいっていい?」

男の子「いいよ!」

私「ありがとうー!じゃぁみとく!」

男の子「まだ近いよ!もっと遠く!もっともっと!」

 

そんな会話のあと、娘は、安心した様子で土管にはいり、

暫く、静かに土管を楽しんでいました。

 

そして私はというと、彼らと心が通ったような気持ちがしてすごく嬉しくて、

もっと彼らと遊びたいとうきうきとした気持ちになっていました。

 

少しして、彼らの一人のお母様が私のところにこられ、

「遊んでもらってすみません!」といってくださったのですが、

謝ることなんてこれっぽっちもない、ということをどうにかお伝えして、

彼らは4歳で、幼稚園帰り。公園で遊び続けて、昼寝の“ひ”の字もないくらい、元気が有り余っているのだということを教えてもらいました。

 

その後、土管を離れ、15分くらいたったあと、

友人親子と娘と私で、別の遊具の一本橋の上で、手を繋いで歩いて遊んでいました。

そこに、さっきの男の子たちがやってきて、彼らの一人が両手を大きく広げ、

私たちを“通せんぼ”してきました。 

 

私は、遊びに来てくれた!と嬉しくなって、

「おーなんだなんだ。通れないよー。どうしたら通してくれるの?」

なんてわくわくしながら聞いていたら、

彼らのお母様たちがこっちにむかって、

「そんな小さい子に意地悪しちゃだめ!はやくおりなさい!」と言っているのが聞こえてきました。

 

私は、彼らとの遊びが終わってしまうことが寂しくて、焦ってしまって、

「じゃんけんで勝ったら通してくれる?」と聞いたりしているうちに、

お母様がやってきて、彼をだっこして一本橋からおろし、

こんなことしちゃだめだよ、と言い聞かせていました。

 

その男の子は、「ママ嫌だ!ほっといてよー!あっちいってよーー!」と言っていました。

 

私は、お母様に、「意地悪な感じじゃ全然なかったんです。

遊んであげようと思ってきてくれてたんだと思うんです。」と伝えてみたけれど、

お母様には、「ほんとうに、すみません!」と謝られてしまいました。

 

私の心の中は、おそらく、その男の子と同じような気持ち、

お母様が見てなかったらよかったのに‥‥

止められなかったら、どんな楽しいことがあったか!

という残念で少し悲しい気持ちになっていました。

 

 

お母様から見たら、その瞬間、息子がふざけて小さい子にいじわるをしているように見えたかもしれないけれど、

私には、本当は、もっと私たちと遊びたいと思ってくれていたのではないか、

と思えるのです。

男の子は、私との土管でのやり取りを経て、”この人は大丈夫”と感じ取って、

私に関わってきてくれているように思ったのです。

 

それは、きっと、他の人には分からない、私たち、本人同士だから分かる感覚。

私にとってその男の子は、私や娘のことをとてもよく感じ取ってくれている、

とても優しい子にしか見えていませんでした。

 

今回は残念だったけれど、また彼らに会えることを楽しみに、あの公園に行こうと思います。

その時は、お母様たちが出動しなくてもいいようにどうにか上手に工夫して。


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いわないで!!

3か月程前、私と夫が話をしていると、娘(当時2歳6か月)が、私のところに来て、

「いわないで!」と言いました。

 

私が、「もしかして、おかーちゃんとおとーちゃんが話してるの、よくわかんなくて、さみしかった?」と聞くと、

娘は「うん」と応えてくれました。

 

こんな風に言われたことは初めてでした。

娘は、大人の話している内容がどんどんわかるようになってきて、

同時に、わからないこともわかるようになって、

話の中に入りたいのに、入れない!という悔しさとか寂しさを持つようになっていたのだということ、

そして、それを表現できるまで大きくなったのだなぁと想像した一件となりました。

 

その1か月後、旅行先で、友人のお義母様の家にお邪魔して夕ご飯を頂いていた時のこと。

娘(当時2歳7か月)は、暫く一人で遊んでいましたが、

すすすーと私の膝の上に来て、小さい声で、「おかーちゃん、いれたいよー」と言ってきました。

言われた瞬間は、何のことやらよくわかりませんでしたが、何度か聞き返してわかったことは、

「この輪の中に入れてほしい」ということでした。

 

以前、私達が話しているときに「言わないで!」といって私たちの話を遮った時と同じような状況だけれど、伝え方も雰囲気も全然違う。

どうしてだろう?と考えてみると、

その場は、私の友人2人と、友人のお義母様がいて、

その家の主のお義母様が中心となって、ぐいぐいとお酒を飲みながら話をされていました。

そのお義母様は、(お話から察するに)ご自身のお孫さんのお世話で少し疲れている様子で、

私から見ると、娘への関わりは最小限のように見えました。

また、部屋の中に遊んでよさそうなものは殆どありませんでした。

 

娘からしたら、そんな雰囲気の場で、

”なんだか、自分は歓迎されていないのかもしれない”とか、

”大きい声で「言わないで!」なんて言ったら、よくないかもしれない”とか、

そういうことを感じ取っていたのかもしれません。

そんな娘を見て、私はとても切なくなってしまいました。

 

そして、昨日、夫の友人家族が我が家へ遊びにきてくれました。

ひとしきり話をしたり、遊んだりした後、

私たちが話をしていると、娘は、大きな声で、「はなさないで!」と言って、話を遮りました。

ちょっとにやっと(悪い顔(笑))しながら。

 

私は、「話わかんなくて、さみしかった~?ごめんごめん、遊ぼう」なんて言いながら、

この家や、この仲間たちの中では、娘は安心して思いっきり表現できているのだ、

と嬉しく感じたのでした。

 

本当に、私が思っているよりもずっと、

娘は色んなことを感じて、理解して、行動しているんだろうなぁ・・・


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いつでも、どこでも。

昨日、友人の家へ行く時の出来事。

出発する直前に、娘(2歳8ヶ月)が、きのこのチョコレート食べる!と言い始め、

前の日に娘が夫と買っていた、「きのこの山」のお菓子をお皿にいれて渡しました。

そして、娘はいつものように、すぐにボリボリと食べ始めていました。

 

出発する時間になりましたが、娘は、まだお皿の中の「きのこの山」を食べ終えていなかったので、

私は、娘に、「出発する時間になっちゃったから、

どこでもいつでも食べれるように、アンパンマンのお弁当にうつしていこう!」

と提案してみました。

娘は、うん、と頷いてくれ、そのようにして出発。

 

いつものように、すぐに食べるかなーと思いきや、

ベビーカーの上で、お弁当箱を握りしめたまま‥‥。

いつもは食べたいものを手にいれたら、大抵はすぐに食べる娘なので、

私は、少し不思議に思ったのを覚えています。

 

30分後くらいでしょうか、私はアンパンマンのお弁当のことなんてすっかり忘れてしまった頃、それは、山手線の電車に揺られている途中でした。

 

娘は、突然、「たべてもいーのーー?」と聞いてきました。

私は、何の話をしているのかわかるまで少し時間がかかってしまいましたが、いいよ、と言うと、

娘は、なんだかとっても嬉しそうに、アンパンマンのお弁当のふたを開け、「きのこの山」を食べ始めたのでした。

 

想像するに、娘は、

私が、アンパンマンのお弁当に「きのこの山」をうつした時に、

あとで、どこかで、食べるんだ!と思い、

そして移動中には、いつ食べようかとわくわくし、

もしかしたら、本当にどこでも食べていいのかな‥‥?とどきどきしていたりしたかもしれません。

いつでも、どこでも、の自由のなかで、

自ら選択するときの、ちょっとしたどきどき感‥‥。

 

普段は、退屈しのぎのために電車のなかでお菓子をあげたり、

夕御飯に食べるために焼き鳥を買って家まで娘にもってもらったり、

あとはそのお菓子自体をめちゃくちゃ食べたい!というもので、買ってすぐに食べる前提のものだったりと、

いつ、どこで食べるかが、色々な意味で既に決まっているものが多かったように思います。

 

今回のことは、娘にとって、

いつでもどこでも、を自分で選ぶ楽しさを満喫する、特別な体験だったのかもしれません。


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