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無言の時間

保育園の帰り、近くの公園で遊ぶのが日課の私たち。

18:00頃なので今は真っ暗で、昨日はお友達は誰もいませんでした。

「お友達いないね~寂しいね~」なんて言いながら、いつものようにすべり台の遊具へ。

昨日は、「みてみておかーちゃん!」と言って、今まで怖くて滑れなかった大きなすべり台が滑れるようになったのを、見せてくれました。

 

暫く遊んだあと、娘はすべり台の一番下に座って電車の線路の方を眺めています。

私が隣に座ると、私に寄りかかって、私の唇を触り始めました。それは、普段、寝る前など、落ち着きたいときにする行動です。

 

私は、せっかく公園にいるのだから、もっと遊んだらいいんじゃないか、と感じたり、誰もお友達いないし、退屈したのかしら、と思ったので、

「ね、寒くない?あそぼ~?それとも、帰る?」ときいてみたら、娘は、静かに首を振って、ゆったりし続けていました。

 

ちょっと寒くなってきたな・・・。ぼーとするなら、あったかい家に帰ってでもできるわ。と思って、立ち上がろうとしましたが、

そうだ、こういう時こそ、こどもの世界を覗いてみるんだった、と思いとどまり、私も少しそこにいることにしてみました。

そういえば、普段は止まることなく遊んでいることの方が多いのに、今日はいつもとちょっと違う。

 

暫くすると、視線の先に、電車が通りました。電車の中には、たくさんの人がいて、色んな背の高さや髪型の人がいました。ここって、こんなに電車がよく見えるんだ。

そういえば、すべり台の下にゆっくり座ることなんて、滅多にないな。普段、お散歩でくる昼間だと、さっさとどけないと次のお友達が来てしまって、それはそれは慌ただしいんだろうなぁ・・・

10分弱くらい、そんなことを想像して静かに過ごしていて、私が「ここ、なんか、特別な感じするね」と伝えたら、娘は「うん」と言って、立ち上がり、再びすべり台を始めました。

 

結局、娘が何を考えていたかはわかりませんでした。

でも、なんとなく、必要な時間だったのかも。とだけ、思えました。

 

ちょうど今朝読んでいた本の中で、子どもの言葉を使わないコミュニケーションの事例が載っていました。

その事例中では、突進したり、泣いたり、時には相手の持っているものをとりあげたり、まだ言葉を十分操れない子供たちはそうやって全身で自分を表現し、相手とコミュニケーションをとっていて、その中で、お互い分かりあったりする、そんな子供たちの姿が描かれていました。

 

その事例を読み、「言葉をつかってコミュニケーションできるようになることはいいことだ」と思っていた自分に気が付きました。そして、実際、娘の感情があふれだした時、相手に言葉でどう伝えたらいいかを教えることがありました。

でも、全身を使って表現する、泣いて表現することは、言葉にはかなわない、その子がまるっと表現されているものなどだと思ったら、それはそれはとても尊いものだと気が付きました。

私自身、言葉をつかえるようになった今、言葉に頼りすぎてしまうことは、なんだかもったいない、そんな気までしてきました。

 

昨日のすべり台での無言の時間。

それは、私に全身でよりかかって、唇を触る、そうやって、娘はまるっと自分を表現していたのかもしれません。

言葉なんか、いらなかったなぁ。そんなことを感じた一件でした。


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